あの夏、父は60歳になった。退職金も、年金の見込み額も、悪くはなかった。ただ、父の口ぐせだけが少し気になっていた。「もう遅いから」。何かを始める前に、必ずそう言うのだ。新しいスマホを買うときも、町内会の役員を頼まれたときも、定食屋の新メニューを前にしたときも。
その夏、私はAIを使った仕事に転職したばかりで、毎日が「自分の方が遅れているのではないか」と思う日々だった。20代でもなく、30代でもなく、もうすぐ40代に手が届く。AIに置き換えられる側か、AIを使って働く側か。境目に立っている気がしていた。
「父さん、資格でも取らない?」
盆休みの最終日、ビールの缶を空けながら、私はそう言った。半分は冗談だった。父は黙ってテレビを観ていたが、CMが終わるころ、ぼそりと言った。
「電気工事士、ってのがあるらしいな」
父の昔の同僚が、退職後に取って、いまも現場で働いているのだという。少し興味があったのだろう、声色はいつもの「もう遅いから」より、ほんの少しだけ若かった。
その夜、私たちは橋をかけることに決めた。
AIに、参考書の「翻訳者」をやってもらう
そこからの父は、何度も投げ出しかけた。教科書のページを開いて、5分で閉じる。「分からん」「もう無理」「目がしょぼしょぼする」。私はと言えば、自分の仕事で精一杯で、付き添ってあげる時間がない。
あるとき、思いついた。ChatGPTに教科書のページを読み込ませて、父向けに「やさしく言い換えて」と頼んでみたのだ。すると、AIは父を子どものように扱うこともなく、上から目線でもなく、ちょうどよい温度で「翻訳」をしてくれた。父はそれをスマホで読み、ときどき笑った。
気づけば私は、AIを使って父専用の学習アプリを作っていた。父が分からないところを写真で撮ると、AIが解説し、例題を一問だけ出してくれる、というだけの簡単なものだった。複雑な機能はいっさいない。ただ「父が続けられること」だけを最優先に作った。
51日後、試験会場の駐車場で
夏の終わり、試験会場の駐車場で、父はめずらしく緊張していた。私は車のなかで、出てくる父を待った。終わってみれば、父の試験はあっけなく終わり、「思ったよりできた」と笑った。
合格通知が届いた日、父は私に黙って封筒を差し出した。中の紙より、その手の少しの震えのほうを、私はずっと覚えている。
そのことを、私は父から教わった。
このサイトは、その夏の記録です。同じことで悩む誰かに、「もう少しやってみよう」と思える夜が、一晩でも増えますように。
編集部・タカシ
60代の父と二人で第二種電気工事士に挑戦し、AIで学習アプリまで作ってしまった。「もう遅い」と言いがちな人にこそ読んでほしい記事を書いています。物語と、淡々とした実用記事のあいだを、毎日往復しています。